フェルディナント K. ピエヒ博士は、1975年から1988年まで、AUDI AGの技術開発部門のトップであり続け、1988年から1992年まで取締役会会長を務めました。2002年から2015年4月までは、フォルクスワーゲンAGの監査役会会長の座にありました。
1937年4月17日にフェルディナント ポルシェの孫として、オーストラリアのウィーンで生まれたフェルディナント ピエヒは、スイス国立の名門校であるチューリッヒ工科大学(略称ETH)で工学を学んだ後、1963年にシュツットガルトのツッフェンハウゼンにあるポルシェKGに入社し、エンジン実験部門で働き始めました。以来、様々な立場で経験を積んだピエヒは、1971年にポルシェKGのテクニカルディレクター(技術開発の責任者)に任命されています。当時、彼のリーダーシップのもと開発されたクルマのひとつに、伝説的なレーシングモデルのポルシェ917があります。このモデルでポルシェは、1970年にル・マン24時間レースで初の総合優勝を遂げています。
アウディNSUアウトウニオンAGへの移籍
1972年ポルシェ一族の評議会はある決断を下し、以降一族のメンバーは、ポルシェKGの経営を担うポジションに就けないことになりました。その年、フェルディナント ピエヒはポルシェKGを離れ、インゴルシュタットに本拠を置くアウディNSUアウトウニオンAGに移籍します。最初のうちは、特別なプロジェクトの技術開発責任者という肩書でしたが、1974年に正式に技術開発部門のトップとなり、その翌年には、取締役会メンバーのひとりに任命されました。
アウディのブランド力強化
ピエヒはアウディの「技術による先進」というスローガンに新たな命を吹き込み、ブランド力を強化し、ブランドの地位が向上するような方策を次々と実行に移していきました。直列5気筒エンジン、ターボ過給、quattroフルタイム四輪駆動システム、フルジンクボディ、直噴ディーゼルエンジン(TDI)、アウディ初のV8エンジン、アルミニウムを使用した軽量設計(アウディスペースフレーム=ASF)、quattro SpyderやAvus quattroといったカーデザインの歴史に残るアイコンは、ピエヒのリーダーシップのもと、アウディブランドが躍進する過程で生み出された金字塔の数々です。
名誉博士の称号
1984年ピエヒは、自動車開発への貢献が認められ、ウィーン工科大学より、名誉工学博士の称号を授与されています。ピエヒは1988年に、AUDI AGの取締役会会長に任命され、その5年後にウォルフスブルグのフォルクスワーゲンAGに移り、そこでも同じ役職(取締役会会長)に就いています。彼は、2002年から2015年まで、フォルクスワーゲンAGの監査役会会長及びAUDI AGの監査役会メンバーの任務を果たしました。